石垣りんが見ていた風景
以下は、大和書房から刊行された拙著『見えないものとの対話』に収録した文章に加筆修正を加えたものである。隣町珈琲という小さな喫茶店を荏原中延に開店した数年後、私はこの町に「移住」した。住んでみると、この町は、私のホームタウンであった、池上線沿線の千鳥町と久ヶ原あたりの空気と似たものがあり、私も自然にこの町に溶け込むことができた。
そして、石垣りんの詩の中に、荏原中延という駅の名前を発見して、この町が私にとってはかなり因縁の深い場所であることをあらためて気づいたのだ。
石垣りんは、かなり長い間、私がここに引っ越してくる前に住んでいた御嶽山の隣町、雪が谷に住んでいたことが知られている。彼女がよく通っていた、喫茶店で、私は何度か、彼女を見かけていたはずである。というのは、雪が谷大塚には私が指導員として通っていた空手道場があり、その喫茶店には、稽古前によく訪れていたからである。
雪が谷と荏原中延に石垣りんは暮らしていた。彼女が見ていた風景は、私が見ていた風景と同じものである。
1・池上線沿線
わたしが東急電鉄池上線の沿線に喫茶店を開業して4年が経過した。喫茶店を作った理由のひとつは、ある映画作品へのオマージュだったように思う。その映画のロケ地探索の旅の途中で、わたしと友人二人は何度も、町の喫茶店でその日の成果を確かめ合ったのである。しかし、適当な喫茶店はなかなか見つからなかった。わたしたちの町からは、昔ながらの喫茶店は徐々にその姿を消しているように思われた。荷物を降ろし、コーヒーを啜りながら、一服できる喫茶店。無いのなら自分たちで作ろうと言うわけだった。
さて、その映画とは、小津安二郎の戦前の作品『生まれてはみたけれど』である。ほとんど偶然のようにネットで見たこの映画に、わたしは小さな衝撃を受けた。
この戦前の映画の中で、見覚えのある風景に何度も遭遇することになったからである。
この作品は、1932年(昭和7年)に発表されたサイレントムービーで、昭和25年生まれのわたしにとっては、記憶の埒外にある時代を背景にしている。
それでも、わたしは画面を何度も横切る電車を見ていて、「これは見たことがある」と感じていた。見ているはずがない風景に強い既視感を抱いたのであった。
1932年の蒲田駅周辺の風景は、今はもうほとんどその痕跡さえ残っていない。当時原っぱだった周辺にはビルが立ち並び、道路は舗装され、用水路は暗渠になっている。確かに風景は全く違っていたけれど、映画の中で描かれた家族の生活や、子どもたちの日常は、わたしが育った時代とさほど大きな隔たりはないように見えた。
特に、電車が画面を横切る風景は、子どもの頃にわたしが毎日見ていた風景とほとんど同じであった。
チャップリンの映画のような、親子が並んで道を歩く美しいシーンは、自分にもそんな時代があったことを思い出させてくれた。
この映画について、少し調べてみると写っている電車は池上線で、蒲田の松竹撮影所を拠点としていた小津監督は、蒲田をターミナル駅としている池上線沿線を何度かロケ地として選んだことが記されていた。
なるほど、池上線ならわたしの実家もその沿線にあり、毎日毎日、過ぎ去る電車を見ながら過ごしていたのだから、この映画の中のシーンを見たことがあると思ったのも当然だったかもしれない。
そして、何度か映画を見ているうちに、わたしはちょっとした違和感を覚えるようになった。画面を横切る電車は確かに池上線に違いないのだが、そこには見慣れている池上線沿線のそれとは異なる風景が混ざり込んでいるような気がしたからであった。
わたしは、同じ町で育った二人の友人にこの映画を見てもらうことにした。
そして、わたしと同様に、二人もまた池上線とは違う電車が映ってるいることに同意してくれた。その電車とは、同じ蒲田駅をターミナルとして、池上線の南側を並行するように走っている目蒲線である。しかし、モノクロームの古い画面からだけでは、走行している電車の前面に掲げてある行先表示を読み取ることはできなかった。
目蒲線は今は、別の路線になっているが、当時は目黒と蒲田を結ぶローカル線で、途中駅には、小学校で友人となった内田樹が住んでいた下丸子や、遊園地のあった多摩川園前、イギリス人が作ったと言われている瀟洒な町のシンボルである田園調布駅を通って目黒まで伸びている。この路線は、小津映画の発表された1932年にも、今とほぼ同じ場所を通っていた。
わたしの実家から、目蒲線の最寄り駅である下丸子までは歩いて5分程度の距離だったので目蒲線沿線の風景も目に焼き付いている。
どのローカル線沿線の風景も似たようなものだと言えば、そうなのだが、そこで暮らしていたものにとっては、その微妙な違いがわかるのである。
わたしたちは、スクリーンに映り込んでいる煙突や、送電線や、橋柱から、ロケ地を特定できるのではないかと思い、画面ショットした何十枚ものスチールを手に、池上線沿線や目蒲線沿線を探索した。まるで、犯人の僅かな遺留品から殺害の状況を炙り出す探偵のような気持ちで、80年前のロケ現場の痕跡を調べていったのだった。
すでに還暦を過ぎた老探偵たちにとって、この作業は思いのほか感興を呼び起こした。国土地理院で取り寄せた当時の地図と、現在の地図をつき合わせながら、毎日、毎日、時に夜中も、探偵作業は続いた。
数ヶ月の探索の結果、池上線と目蒲線の両方の車両が画面を走っていたことを証明する証拠をつかんだ。今はなくなった道塚駅(目蒲線)の跡地や、当時の池上線の路線が一部今と異なっていることや、蒲田駅西口に立志伝中の人物である黒澤貞次郎が興した工場(吾らが村)があり、並ぶようにして大倉陶園という高級陶磁器製造の工場が立ち並んでいたことも判明した。黒沢商会創業者の孫や、横浜に移築された大倉陶園本社を取材し、黒澤貞次郎や大倉孫兵衞の伝記を調べるうちに、わたしたちの興味は、次第にロケ地探索から、戦前昭和の経営者たちが抱いた夢の痕跡を追うことへと移っていった。
同時に、『生まれてはみたけれど』という映画に、小津安二郎が託したものの輪郭がおぼろげながら分かってきたのであった。
映画は、麻布から蒲田へ引っ越してきたサラリーマンの家庭が舞台になっている。両親と兄弟は新天地での生活にまだ慣れてはいない。最初は近隣の悪ガキたちにいじめられていた兄弟は、すぐに地元の兄弟から一目置かれる存在になるが、田園調布に住む社長にへつらう父親の姿を見て大きな失望を味わう。父親と、息子たちとの間に齟齬が生まれるが、母親のとりなしもあって、父子は和解してゆく。小津は、サラリーマンの悲哀と、小市民のささやかだが小さな幸福に愛惜の視線を注いでいる。
映画を見ていてハッとする場面がいくつか出てくる。子どもたちが通う学校の教室に「爆弾三勇士」の揮毫が掲げられており、体育の授業では教練が行われている。この映画が作られた数年後(1937年)には、盧溝橋事件が起きており、以後日本は泥沼の戦争へと歩を進めていったのである。
ただ、満州事変のあった昭和6年から昭和12年(1937年)の盧溝橋事件までの六年間は、日本国内だけを眺めれば、歴史の真空のような不思議な平安が兆していた。
作家の川本三郎は、この頃の小津の作品が小市民映画と呼ばれたことに関して、「小市民映画とは、この昭和6年の満州事変と昭和12年の支那事変(日中戦争)との間の安岡章太郎のいう『平和な安穏な休憩期間』『一瞬の繁栄期』に作られた、豊かな都市郊外生活者の映画だったということが出来る」と書いている。(『郊外の文学誌』の「小市民映画の生まれたところ 蒲田とその周辺」)
小市民の生活。小津は、武ばった当時の風潮に対して、守るべき大切なものとして、ささやかな平安を求めて懸命に生きている小市民の生活を対置させたかったのかもしれない。
映画のラスト近く、池上線沿線の家の庭で父親と息子兄弟がおむすびを大張ながら会話をする。
「お前は大きくなったらなんになるんだ」
次男が「中将になるんだ」と答える。
「どうして大将じゃないんだ」と父親が言うと
「兄ちゃんがなるから」と答える。
戦争が、もうすぐそこまで来ていて、この小市民の幸福な時間がそれほど長くは続かないことが暗示されている。
戦争前夜の物静かな平安が、微妙な緊張感を漂わせていると思うのは、その後の帰趨をわたしたちが知っているからかもしれない。
2・実家
生前、わたしの母は、足が不自由になっても、毎日同じ時刻に手押し車を押して商店街へ向かった。ほとんど買うものがなくとも、完全に歩けなくなるまで、商店街通いを続けた。
そして、毎日同じ夕暮れ時に、手押し車を押してトボトボと歩いて戻る母親の姿を見ていた。
結婚して以来、ほとんど家を空けることのなかった母親にとって、この毎日の商店街までの小さな旅が終わるときは、自分の人生も終わるのだと信じ込んでいるかのようでもあった。 母親は家に戻ると、文句しか言わなくなった父親のためにそそくさと料理を作った。味噌汁を作り、卵を入れて煮立てる。料理の味は、次第に濃くなり、都会生活に慣れたわたしにはしょっぱ過ぎた。家は老朽化し、天井裏をネズミが這った。建て増し、建て増しでこしらえた家には、そこいらじゅうに段差があり、老夫婦には暮らしにくい場所だった。洗濯機は裏口の外にあり、踏み石を跨がないとアクセスできなかった。
介護のために何十年ぶりかで、両親の実家で過ごすことになったわたしには、不便で、やりきれない生活を見て嘆息した。
家をバリアフリーにリフォームしたい気持ちはあっただろうが、父親はなぜかボロ屋に手をつけようとはしなかった。
なかなか動こうとしない父親に、リフォームを提案したのは、母親の入院が決まってからだった。退院した時には、段差のない、ピカピカの家に迎えてあげようと改装にとりかかったが、母親は二度と自分の家に帰ってくることはなかった。帰還した放蕩息子であったわたしと、それまでほとんど口も聞いたことのない父親の男二人が、新しくなった家に残された。
真新しくなった居間に座って、わたしは「これからどうするよ」と父親に言った。
それから一年で父親も亡くなった。 外では愛想よく振舞っていたが、家の中では典型的な権威主義家父長を演じていた父親は、女房に先立たれると、見る見る衰えていった。
父親が亡くなってからわたしは行き場を失っていた。
女房と娘が暮らす世田谷のマンションに戻れば良さそうなものだが、わたしは両親を送った池上線沿線の実家から離れ難い気持ちになっていた。あれほど、自分が嫌って、いつも脱出したいと思っていた実家の生活が、両親の死後、何度でも立ち戻らなければならない重要な場所になっていることに、自分でも驚いたのである。
それは、愛憎相半ばと言うのとも違う、複雑な、ねじくれた愛惜だった。
両親が亡くなって、あるじを失った実家は、結局売りに出されることになった。リフォームして外観だけは綺麗になったが、大黒柱はシロアリに蚕食されていた。東日本大震災の直後ということもあり、ボロ家に住み続けるのは危険だという判断だった。
わたしは、すぐ隣の駅前に小さな部屋を借りて、実家にあった荷物を運び込んだ。その部屋は、今もわたしの書斎になっている。
喫茶店の場所は、五反田駅から池上線に乗って三つ目の荏原中延(えばらなかのぶ)駅近くにある。わたしは毎日、池上線に乗り、荏原中延駅で降り、歩いて4分のところにある喫茶店に通うことになった。
毎日、御嶽山駅から池上線に乗り、荏原中延で降り、喫茶店まで歩く。夕刻にはまた末枯れた商店街を抜けて荏原中延駅まで歩く。自分は何をやっているのだろうかと思うことがある。
3・戻っていく場所
介護生活からの解放は、父親の快癒ではなく、死であった。それが、老人介護の最も不条理なことである。御嶽山に持ち込んだ古い書類や写真を整理しながら、わたしは何度となく、実家で過ごした子ども時代のことを思い出した。そのほとんどは、家の記憶に結びついていた。それは建て替える前の、地主から買い取った古民家のような家だった。ドブ川を挟んで玄関があり、畳の部屋が二間あって、北側に台所と便所があった。台所の床板の下には、ぬか床があり、母親は漬かったキュウリやナスを取り出して、食卓に並べた。食卓の天井からは裸電球と、蠅取り紙がぶら下がっていた。
家
石垣りん
夕刻
私は国電五反田駅で電車を降りる。
おや、私はどうしてここで降りるのだろう
降りながら、そう思う
毎日するように池上線に乗り換え
荏原中延で降り
通いなれた道を歩いてかえる。
見慣れた露地
見慣れた家の台所
裏を廻って、見慣れたちいさい玄関
ここ、
ここはどこなの?
私の家よ
家ってなあに?
この疑問、
家って何?
半身不随の父が
四度目の妻に甘えてくらす
このやりきれない家
職のない弟と知能のおくれた義弟が私と共に住む家。
柱が折れそうになるほど
私の背中に重い家
はずみを失った乳房が壁土のように落ちそうな
そんな家にささえられて
六十をすぎた父と義母は
むつまじく暮している、
わがままをいいながら
文句をいい合いながら
私の渡す乏しい金額のなかから
自分たちの生涯の安定について計りあっている
この家
私をいらだたせ
私の顔をそむけさせる
この、愛というもののいやらしさ、
鼻をつまみながら
古い日本の家々にある
悪臭ふんぷんとした便所に行くのがいやになる
それで困る。
(「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」(昭和34)所収)
石垣りんの作品は、若いときから折に触れて読んできた。しかし、両親を見送り、御嶽山の書斎に引っ越すまで、この詩が目に止まることはなかった。
もし、介護の経験がなければ、わたしにとってこの作品はただ暗いだけの嘆き節に過ぎなかったのかもしれない。もし、荏原中延に喫茶店を作っていなければ、この詩もまたただ読み過ごすだけのものだったようにも思う。
しかし、
「荏原中延で降り/通いなれた道を歩いてかえる。
見慣れた露地/見慣れた家の台所
裏を廻って、見慣れたちいさい玄関」
と言う詩句を改めて目にしたとき、そこに描き出された光景が、自分が慣れ親しんだ実家の光景と二重写しになった。
わたしは荏原中延で降り、通いなれた道を歩いて仕事場へ向かっている。
喫茶店の場所に荏原中延を選んだのは、ほとんど偶然だったが、そこにはわたしには見えない機縁が働いていたのかもしれない。
誰でも一生のうちには、何度か引越しを経験するだろう。
わたしの母親は、結婚して埼玉の田舎から東京へ出てきてから、一度もその家を離れることはなかった。
家が老朽化してゆくように、母親もその家とともに老いていき、やがて息を引きとった。
わたしは、結婚して家を飛び出し、何度か引越しを経験したのちに、自分が生まれた家に戻ることになった。その家を売りに出し、あっという間に取り壊され、新築の家が三軒並んで建っているのを見たとき、もう、ここはわたしとは無縁の場所になったと感じた。そのときわたしの記憶も、帰っていくべき場所を失ったのだった。
荏原中延という駅で降り、同じ道、同じ商店街、同じ路地を歩いていると、ここにわたしは帰ってきたのだと思うようになった。
何度か引越しをしたのちに、人は、行き場を失った記憶に導かれるようにして、自分が生まれ育った場所と同じような場所に戻ってくるものなのかもしれない。
そこが、「私をいらだたせ/私の顔をそむけさせる」「いやらしい」場所であっても。
喫茶店を開業する場所を探していたわたしが、荏原中延の路地裏を抜けて、今喫茶店のある場所に思わす足を止めたのには理由があった。そんな気がする。